経営計画研究会1
Tue, 15 Feb 2000
経営計画研究会に積極的に参加している、仲間の社長が無くなると3年間はお墓参りに行きます。
最初が三枡さん(私の仲人)で次が石田さん。
広島と出雲なので大変ですが、毎年12月に来期のスケジュールを作成するが最優先です。墓参りは。
仲間の社長にも案内を出し、希望者と墓参りをして、故人を肴に宴会をします。
中小企業の社長が孤独感無く経営に当たれるのは全国に仲間の社長が居るからです。
普通の会に有って、この会に無いものが2つ有ります。
会則と名簿です。
この2つが無いので16年間勉強会が続いてます。
いつの間にか異業種に成った。
女性のメンバーは過去4名です。
毎月日本のどこかか、外国で勉強会を開催している。
毎会不思議と15ー25名です。多くなく少なくなく調度良いのです。
それに幹事(担当すると参加費が1万円安く成る)がしてはいけない事が2つ。
動員(無理すると長続きしない。)と気を使った部屋割り(新しい交流が始まらない)。
メンバーの募集は行わず紹介のみです。
通常、勉強会は全国で開催される。
東京で開催すると全員が便利すぎて、仲間の交流が出来ない。
移動時間で情報交換が始まる。
勉強は午後1時から初めて5時まで、翌日は8時から12時まで。
テキストは株式会社武蔵野の経営計画書・事業年度計画・マニュアル等、生データを使用。
写真に説明を入れる場合はここに。
最初は抵抗感が有ったが、加工データだと説得力に欠ける、何より忙しいので資料はコピーだけで済むので大助かりです。
又、メンバーが加工して使い、成果を出したものはそのまま我が社の資料と成る。
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1998年3月10日11時02分石田憲咲(社長)さんが、死去した。
(井辻)突然ですので、びっくりしました。
奥さんが、主人の行動は、最優先が経営計画研究会への参加だったといってた。
(井辻)はい、すべてに、優先して、参加されると言っておられました。
通夜・葬儀も鈴なりの人だった。太田市では超有名人だそうです。
(井辻)ホントですね。超有名人でした。
仲間の社長も全国から20名来た。
金澤さんは、秋田から「こまち」 「夜行特急いずも」を乗り継いで、黒田さんは、ヨーロッパから帰国し、関西空港からその足で、みんな、ショツクだが、井辻さんが一番です。(私見)
(井辻)十数年来の親友でしたので、未だに、信じられません。
昨年、12月29日井辻さんと家族三人でお見舞いに行った。
癌を知らされて数日しかたっていないのに、明るい笑顔で迎えてくれた。
(井辻)そうです。
あんまりにも、みなさん、明るいので、「もしかしたら、これは、癌では、ないのでは???」と、思ったくらいでしたが、
後で考えると、尊敬する小山社長がわざわざ来てくれたので、
「精一杯」明るく、振る舞っていたのだと、思います。
励ましの葉書は毎週出した。内容は反省会(宴会)の事が中心だった。
(動機は不純でも希望が有れば頑張れる。)
(井辻)はい、いつも、読んでは、奮起されていたそうですね。
写真に説明を入れる場合はここに。
そのことを、久保田さんに話すと絶句。
生前4月2日に自分が亡くなっても、経営計画書を優先するようにと言い残し、朦朧とした頭で計画書を作成した。
当然おかしな所が数箇所有った。
数年前、三枡さんの鬼気迫る、経営計画発表会を思い出した。
寝たきりに近い状態なのに、この時は車椅子で会場に現れ、5メートル歩いて、5分ほど話して引っ込むと思ったら1時間近く話をしていた。
10月1日で12月11日に無くなった。
某銀行の支店長が男泣きして挨拶をした。
修羅場だ。
(井辻)お二人とも、「凄い」です。
壮絶です!!
このような、社長と仲間に知りあえて、私は幸せです。
4月2日、経営計画発表会に出席します。
とても、いい方で、あれほど、明るい方は、いませんでした。
(井辻)私も、経営計画発表会には参加させて頂きます。
井辻 栄輔 拝
写真に説明を入れる場合はここに。
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◆石田憲咲さんを悼む。
(1) 98/03/12 08:13
◆昨夜、石田憲咲さんの、通夜に行ってきました。
最後の顔を見たいと思っていたのですが、大田では、先に火葬する習慣があってすでに、骨になっていました。
◆読経の時、石田さんとの思い出が、走馬燈のように、浮かんで来て、涙が止まりませんでした。
それに、引き替え、奥様は、気丈に、笑顔でみんなに、挨拶をされ ていました。
◆経営計画研究会(別名、小山軍団)のメンバーが、全国から十数名お通夜から参列されていました。
葬儀はもっと、増える予定です。
◆奥様の話しによると、去年の7月頃、症状が出て、一度手術をして、少し良くなって退院をしたが(この時、大田のプラスの会のMGで、顔を出されましたが、目を覆いたくなるほど、痩せておられました)、再度、手術をして、このとき、すでに、癌の末期と判明したそうです。
医師からは年内、持たないと言われたそうです。
◆医師から、延命するために、抗ガン剤を打つか、(打つと、痛みは、納まるが、意識が薄れてくる)、点滴だけにするか(こちらなら、痛みはあるが、最後まで意識ははっきりしている)の選択をせまられ、後者を選んだそうです。
痛くても、最後の最後まで、意識をはっきりさせておきたいとのことです。
◆正月を迎えられないと思っていたのが、みんなの励ましのお陰で、こうして、3ヶ月分だけ、余分、生きさせて頂いて、感謝をしていると、言っておられました。
写真に説明を入れる場合はここに。
◆奥様が、医師に、「主人に、癌の末期であることを、伝えたい」と、言ったが、医師は、「末期だから、告知をしないほうが、良い」と、言われたが、奥様の意思で、 石田さんに、伝えたそうです。
最初は、驚いていたが、その後は、ずっと、沈着冷静 だったとのことです。
あくる日、病院に行ったら、ベッドにいないので、心配して探したら、食堂で、ノートに、びっしり、自分の思いや、仁万屋の3年後、10年後自分のやりたかったことを、書いていたそうです。
残された人が、困らないように、いろいろ書いていたそうです。
◆そして、しばらくして、二人の子供さんを、呼んで、「自分は、こういった病気 で、しばらくしたら、死ぬ。」と、言われ、今後のことを、託されたそうです。
4月2日に、経営計画発表会を、行うと、張り切っておられ、計画も完成しており その日まで、命があってたとえ「車椅子」ででも、参加したいと言っておられたそ うです。
◆自分で、自分の葬式の準備をしておられ、奥様も、お母さんも、地元の人間では ないので、大田での葬式の習慣や、いろんな風習を教えれ、「供花は、白色」が いいとまで、指示をされていたそうです。
心中は、どんなにか、悲しくて残念で あっただろうに、一切、そんな素振りを見せないで、キチンと堂々と50年の人生を終えられたそうです。
(本人の台本で「仲間の社長を代表して」代表焼香に小山を指名しで戴いていた。
病魔に犯されていたのに。何しろ気遣いは凄い。ふざけているが。)
◆とにかく、明るく楽しくて、いつも大きな口を開けて、バカ笑いをされていた石田さんの顔がとても印象的でした。
略歴を紹介されていましたが、慶応大学卒業のエリートとは十数年、親しくつき合っていても知りませんでした。
学歴など一言も、言わないで、とにかく、みんなを楽しませようという犠牲的精神をもっていたのが、石田さんの良いところだと、思います。
◆去年の暮れに、2日続けてお見舞いに行ったけれど、奥様も、とても明るいし、本人も冗談が出るほど、元気だったので、「あれ? もしかしたら、癌じゃあ、ないのかもしれない」と、思ったほどでした。
小山社長も年末のお忙しい時に、奥様同伴で、 お見舞いにかけつけてくれたので、恐らく「せいいっぱいの、明るさ」を振る舞っておられたのだと思います。
(病気、ホンとかと聞こうかと思った位だ。パワーザウルスのEメールの設定を教えた。)
◆毎年、秋に、中田さんが、大田で、MGを開催してくれて、夜は、毎回、仁万屋で、コンパニオン付きの大宴会をしていました。
石田さんも、一緒に入って、どんちゃん騒ぎをいていました。
それが、今年からは、石田さん抜きで、宴会をするかと思ったら、寂しくて仕方がありません。
写真に説明を入れる場合はここに。
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◆経営計画研究会も、私のとの縁で、入会してくれて、その雰囲気が、「水に合う」 と、言っておられ、私同様、殆ど、皆勤で、参加されていました。
その会でも、人気者で、恒例の「ショータイム」の、人気役者?でした。
コンパニオンが、腹をかかえて、笑っていました。あんまり、はりきり過ぎて、アキレス腱を、切ってしまい(ホンとです。)、
病院に、行って、私なら「1ヶ月以上も、入院いないといけない。どうしよう」と、 悩んでしまうところだが、石田さんは、病院の女医さんを口説いたり、冗談を言って いたそうです。
◆色んな、エピソードの多い方で、去年の信州・安雲野で、経営計画づくりのため 山籠もりをするホテルで、たまたま、
ピアノ演奏をしていて、石田さんは学生時代 グリークラブに入っており、音楽に詳しいとのことで、ピアノ奏者に、「月光」をリクエストしたそうです。
そして、演奏が、終わって、奏者に「先ほどの、月光は 素晴らしかったです」と、チップを持って行ったら「楽譜がなかったので、月光は、演奏できなかった」と、言われて、恥を書いたと、自分で、笑っておられました。
◆複写・葉書も、熱心な方で、必ず定期的、お礼の葉書や、近況報告をしてくれて いました。行動は、常に、仕事優先で、「仁万屋」を良くしたいという熱意がいつも 伝わってきていました。
・葉書を出せば必ず、返事をくれるという義理堅い人でしたが、ここ半年くらいは、返事も書けないほど、弱っていたのだと思います。
語れば、キリがないですが、ひとまずここで、思い出を、終えさせて頂きます。
98/03/12(木) 07:13 井辻 栄輔